自然と子どもを守る会

会の成り立ち

1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックに向けて、自然教育園を縦断する首都高速道路が計画されました。幼稚園では自然教育園の関係者とともにその計画の変更を求めて関係省庁に陳情し、自然教育園を貫通する計画は変更されましたが、自然教育園の外周をかすめて高速道路が建設され、園内の水鳥の沼の水脈が絶たれてしまいました。

更に幼稚園の前に目黒通りのバイパスが建設されると、周辺の開発が進められるようになり、にわかに幼稚園をめぐる環境が変化して行きました。mizudori

海先生は、高速道路建設の際もっと強く反対すれば、水鳥の沼の水脈は守れたのではないかという反省から、これ以降、自然教育園と幼稚園周辺の環境の変化に対して声を上げるようになったと述懐されていました。

1968年(昭和43年)幼稚園の隣、現在花屋のある場所に品川労働基準監督署の建設が計画されると、幼稚園の保護者も海先生とともに労働省・関東財務局に足を運び計画の中止を訴え、その結果、計画は白紙になりました。

1972年(昭和47年)上大崎の高速道路沿いにCIマンション建設計画が持ち上がり、役所や関係者と話し合う機会が多くなったことから、それまでPTA委員会の中で役割分担をしていた対外交渉を行う実行委員会が作られ、保護者の係の一つとして周辺の環境問題に対応して行くことになりました。

1975年(昭和50年)迎賓館跡地に西武プリンス建設計画が持ち上がり、高速道路建設の教訓から、幼稚園は建築計画に対し自然教育園の環境を守るために外部の有識者とも連携して反対運動を行いました。

この際、教育学者の城戸幡太郎初代園長から、自身が主催する「自然と子どもを守る会」の名称を、幼稚園が対外的に活動する組織の名称として使っても良いとの許諾をもらい、白金幼稚園独自の組織としての「自然と子どもを守る会」が生まれました。

海先生はこの組織について、実際に関係各所と話し合いをするのは実行委員会だけれど、これは実行委員会だけの活動ではない。幼稚園の保護者は全員「自然と子どもを守る会」の会員となって、環境保全費を納入することで自然教育園と幼稚園周辺の環境保全のために幼稚園が活動しているということを意識しなければいけないと仰っていました。

以後、周辺の開発に際しては、幼稚園と『自然と子どもを守る会』の連名で請願、陳情、要望書等が提出されるようになりましたが、2001年(平成13年)幼稚園の新園舎建設と隣地の予防衛生研究所跡地の住宅都市整備公団建設計画に際して、幼稚園の環境に対する考えを深める必要が生じ、それまで外部の団体等の参加も認めていた「自然と子どもを守る会」を幼稚園の関係者で組織する形に変更し現在に至っています。

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